私たちの体では、毎日たくさんの細胞が生まれています。
一方で、古くなった細胞や傷ついた細胞は、死んだり取り除かれたりしています。
つまり健康な体では、
「細胞を増やす仕組み」と「細胞を減らす仕組み」
が、絶妙なバランスを保っています。
ところが、がん細胞ではこのバランスが崩れます。
では、なぜがん細胞は増え続けてしまうのでしょうか?
今回は、その仕組みを「細胞の増殖スイッチ」という考え方から見ていきます。
1.正常な細胞は勝手に増えているわけではない
私たちの体には、およそ数十兆個の細胞が存在すると考えられています。
皮膚、腸、血液などでは、古くなった細胞を補うために新しい細胞が作られています。
しかし、細胞は好き勝手に増えているわけではありません。
細胞には、
- いつ増えるのか
- いつ増えるのを止めるのか
- DNAに異常があった場合どうするのか
- いつ死ぬのか
といった情報を調節する仕組みがあります。
これによって、体の中では細胞数が適切に保たれています。
2.細胞には「アクセル」と「ブレーキ」がある
細胞の増殖を車に例えてみましょう。
細胞を増やす方向に働く仕組みをアクセル、
細胞の増殖を抑える仕組みをブレーキ
と考えることができます。
正常な細胞では、
アクセルを踏む → 必要なときだけ増える
ブレーキをかける → 必要以上には増えない
という制御が行われています。
このバランスが非常に重要です。
3.がんでは「アクセル」が入りっぱなしになる
がん細胞では、この細胞増殖の制御システムに異常が起こります。
例えば、細胞を増殖させる働きを持つ遺伝子に異常が起こると、
「もっと増えろ」
という信号が出続ける状態になることがあります。
このような働きをする遺伝子の代表が、
がん遺伝子(oncogene)
です。
もともと、がん遺伝子のもとになる遺伝子は、正常な細胞の増殖や生存にも重要な役割を持っています。
しかし、遺伝子に変異などが起こると、細胞増殖を過剰に促す状態になることがあります。
つまり、
正常な増殖システムが「暴走」する
わけです。
4.もう一つ重要なのが「ブレーキ」の故障
がんを理解するうえで、アクセルだけでは不十分です。
細胞には、増殖を抑える「ブレーキ」の役割をする遺伝子もあります。
代表的なものが、
がん抑制遺伝子(tumor suppressor gene)
です。
がん抑制遺伝子は、細胞の増殖を抑えたり、DNAの損傷に応答したり、異常な細胞を排除する仕組みに関わっています。
例えば有名なTP53遺伝子は、DNA損傷などの細胞ストレスに応答して、細胞周期停止やDNA修復、場合によっては細胞死などを誘導する重要な役割を持っています。
もし、このような「ブレーキ」の仕組みが壊れると、
本来なら止まるはずの細胞が増殖を続ける
可能性があります。
5.「アクセル」と「ブレーキ」の両方に異常が起こる
ここが、がんを理解するうえで非常に重要なポイントです。
がんは、単純に一つの遺伝子が壊れれば発生するとは限りません。
細胞の増殖、生存、DNA修復、細胞死などに関係する複数の仕組みに、さまざまな異常が蓄積していくことがあります。
イメージすると、
アクセルが強くなる
+
ブレーキが効きにくくなる
+
DNA損傷への対応にも異常が起こる
+
異常な細胞が死ににくくなる
といった変化が組み合わさって、がん細胞の性質が形成されていきます。
6.細胞周期という仕組み
細胞が分裂するときには、細胞周期という一連の過程を通ります。
大まかには、
細胞が成長する
↓
DNAを複製する
↓
DNAや細胞の状態を確認する
↓
細胞分裂する
という流れです。
細胞には、各段階を適切に進めるためのチェックポイントがあります。
DNAに大きな問題があれば、細胞周期を停止して修復を試みたり、場合によっては細胞死へ進んだりします。
ところが、がん細胞ではこうした制御が破綻している場合があります。
その結果、異常を抱えたまま細胞分裂を続けることがあります。
7.がん細胞は「増える」だけではない
ここで、もう一つ大切なことがあります。
がん細胞の特徴は、単に増殖が速いことだけではありません。
がん細胞では、
- 増殖を続ける
- 細胞死を回避する
- 周囲の組織へ浸潤する
- 血管を利用して栄養を得る
- 免疫による攻撃を回避する
など、さまざまな性質が関係しています。
つまり、
「増え続ける」という性質は、がんという病気を構成する重要な特徴の一つ
なのです。
8.遺伝子だけでなく「遺伝子の使われ方」も重要
ここで、以前の記事で紹介したエピジェネティクスにもつながってきます。
同じDNAを持っていても、すべての遺伝子が常に働いているわけではありません。
細胞は、
どの遺伝子を使うのか
どの遺伝子を使わないのか
を調節しています。
DNAの塩基配列そのものを変化させなくても、遺伝子の働き方が変化することがあります。
こうした仕組みに関係するのが、DNAメチル化やヒストン修飾などのエピジェネティックな制御です。
がんでは、遺伝子の変異だけでなく、このような遺伝子発現の制御異常も重要だと考えられています。
9.「がんを治す」とは、何を止めることなのか?
ここまで見てくると、がん治療の考え方も少し見えてきます。
もし、がん細胞が特定の増殖シグナルに依存しているのであれば、
そのシグナルを妨げる
という方法が考えられます。
実際に、特定の分子を標的にする分子標的薬などが開発されています。
また、がん細胞の特徴を利用して、
- DNA合成を妨げる
- 細胞分裂を妨げる
- 特定のシグナル伝達を阻害する
- 免疫による攻撃を利用する
など、さまざまな治療法が研究されています。
つまり、がん研究とは、
「がん細胞では何が正常と違うのか?」
を詳しく調べることでもあります。
10.がん研究では「なぜ?」を一つずつ解明していく
例えば、あるがん細胞が増殖しているとします。
そこで研究者は、
「なぜ増えるのか?」
と考えます。
すると、
「ある遺伝子が活性化しているのでは?」
という仮説が生まれます。
さらに、
「その遺伝子を抑えたら増殖が止まるのか?」
という実験を行います。
もし増殖が抑えられれば、
その遺伝子や経路が、がん細胞の増殖に重要なのではないか
ということが分かってきます。
このように、
観察 → 仮説 → 実験 → 結果 → 新しい仮説
というサイクルを繰り返しながら、がんの仕組みを少しずつ解明していきます。
まとめ
今回のポイントを整理してみましょう。
正常な細胞
アクセル(増殖促進)
と
ブレーキ(増殖抑制)
がバランスを取っています。
がん細胞
遺伝子や細胞内シグナルの異常などによって、
アクセルが過剰に働く
ブレーキが効きにくくなる
DNA損傷への応答が乱れる
細胞死を回避する
など、複数の異常が重なっていくことがあります。
だからこそ、がんは単純な病気ではありません。
そして、がん研究の面白さもここにあります。
一つの遺伝子、一つのタンパク質、一つの細胞内シグナルを調べることで、
「なぜ、この細胞はがんになったのか?」
という大きな謎に少しずつ近づいていくことができます。
次回は、この「アクセル」と「ブレーキ」の正体をさらに詳しく見て、
「がん遺伝子とがん抑制遺伝子――細胞のアクセルとブレーキ」
について解説します。

